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2006年08月04日

●中田マコトのプロフィール

maco.jpg

有限会社シュール
代表取締役  中田マコト

1960年3月8日生まれ
金沢市在住
A型 魚座
趣味:古いクルマ

1960

金沢市に生まれる。
元気な赤ちゃんだったのに、6ヶ月頃、あることから病気がちになり以後生死の狭間に生きる。両親の懸命の対応によりなんとか生き延びる。
(→母談)

1963

3歳。
北陸地方豪雪。雪がまだ深い春、父の転勤で東京へお引っ越し。
小平市に住むことになりました。

1964

4歳。
幼稚園へ入園。ただし幼稚園が嫌いでいつも仮病を使って休んでました。
後に記録を見ると出席日数は、多い月で1週間程度。( ̄▽ ̄;)
このころからサボリぐせが。。 。
粘土で鉄人28号を作るのが得意!でした。家でさぼって腕を磨いていたのでしょう。

1966

6歳。
小平第八小学校へ入学。お陰さまで身体も元気になり、普通の子供のようになれました。
小学校1、2年では、かけっこがちょっと早かったくらいで、後はあまり覚えてないなぁ。

1968

2年生が終わった春休み、父親の転勤で、また金沢へUターンお引っ越し。
3年生から泉野小学校へ転校 。転校生のイイこと、やなことを一度に体験。 よそものは辛いですね。
でも、4年生になって人望厚く?学級委員に!(なったのは良いが、ちっとも仕事をしないと担任の先生からいつもお叱りをいただいていました)

1970

4年生の終わり、またまた転勤で、今度は鎌倉へお引っ越し。
5年生の春、深沢小学校へ転校。 友人達と仲良くなったところでお別れ。というパターンに馴れてくる。(転校っていろんなこと→特にイヤだったことや、恥をかいたことなんか。をリセットできて、考えようによっては使えるなぁ、と、この頃もぼんやり思っていた。)
5年、6年と、社宅の裏のはげ山で、段ボールをお尻に敷いてソリごっこ。毎日滑って転んで遊んでました。

1972

小学校を卒業した春、またまたお引っ越し。金沢へ舞い戻って来ました。
あまり裕福な家ではなかったのですが、借金をして金沢に家を建てました。もう、お引っ越しは無さそうです。
兼六中学校へ入学。卓球部へ入ったのですが、やっぱり僕は虚弱だったようです。1年の夏を待たずしてついて行けなくなり退部、トホホ。。。

1973

2年生になって、やっぱり卓球がやりたくて、カッコ悪かったけど再入部。少しは強くなっていたのか、最後までお勤めできました。

1974

中学3年生のときに、フォークギターを買ってもらいました。
このころは、岡林信康をはじめ、吉田拓郎などフォーク全盛の時代で、御多分に漏れず毎日ギターの練習を重ねギターテクニックを磨いていました。たぶん、歌が下手だったからテクに走ったのでしょう。
そうそうシンガーソングライターといっていましたね。僕は井上陽水が大好きでした。 初めてお小遣いで買ったLPが「氷の世界」でした、いや、借りたんだったかな?まだ僕の手許にあります! ヾ(・・;)ォィォィ

1975

金沢泉丘高校入学。
虚弱児の忌わしい記憶が奥底にあったのか、強くなりたくて柔道部に入部。 受け身も覚えてないうちに、先輩にいきなり投げられ足の骨にヒビが入ってしまいました。とっても痛かったんですが、ホントはサボリのくせにサボリと思われるのがイヤで我慢して部活してました。

1976

高校2年。
ケガしながらも頑張った甲斐あって、念願の黒帯取得!
このころから、ロックに本格的に走り、エレキギター(ストラトキャスターのコピー版)を親に買っていただきました。
あいかわらず歌がへたくそなもんで、またまたテクに走っていました。
ハードロックとプログレが大好きでした。ハードロックはリッチーブラックモア率いるディープパープル。 プログレでは、やはりイエスでしょう。ピンクフロイドもですね。この二つのバンドの曲は今でもほぼ毎日聞いています。30年も同じ曲、演奏を楽しめる音楽って!!スバラシイ!

1977

高校3年。
音楽と共に常にやってたことは、絵を描いたり、何かを作ったり。このころからできれば(今でいう)クリエイティブなことをしたいとハッキリと認識しはじめたようです。
音楽にインスパイヤされて色々と絵をかいていました。

1978

僕は理科系だったので、一方ではエンジニアの道も目指していました。
エンジニアになりたいのか?アートやデザインの世界へ行きたいのか?
中途半端な気持ちで受験した金沢大学工学部電子工学科は見事に「サクラチル」でした!
当時はちょうど共通一次(センター入試以前のシステムですね)開始の前の年で、国立大学には1期校、2期校とありまして、ラッキーなことに二つの大学を受けることができたんですよ。
で、結局、福井大学の工学部電子工学科へ入学。 福井へお引っ越しです。

1981

福井では本格的に?音楽とアートの活動を開始。当然大学へは足が遠のき、見事留年。
懲りない僕は両親の心配を他所に、この後2回も留年を重ね、バカタレなことに卒業まで7年もかかりました。
でも、研究室では元来の探究精神が目覚め、当初講座では目の敵にされていた僕ら留年組も最後には研究成果 を誉めてもらえました。
\( ̄▽ ̄;)/
卒業論文は「炭酸ガスレーザーによるSF6の可飽和吸収特性」というものでした。

このころカセットテープのポータブルMTRといったものが出てきて、早速それでオリジナルデモテープを作り始めました。性格的に1から10まで自分でやらないと気が済まないのか、作詞、作曲はもちろん、ベースギター、キーボード、 リード、サイドギター、そしてヘタクソなくせにヴォーカルとひとり数役をこなし、多重録音にうつつをぬ かしていました。大学生活の後半には下宿に中古のドラムを持ち込みリズム体も自分で!と勢い込んでいたのですが、近所のコワイおじさんに「やかましい!いい加減にしろ!」何度も怒鳴られ、結局ドラマーの道は断念。リズムボックスで我慢しました。

1985

長かった大学生活も終わり、ようやく卒業です。
さて、就職活動ですがここでも留年組は嫌われて、おまけにこの期に及んでもデザインの道が捨てがたく、中途半端な気持ちでいましたので、当然どこも採用していただけませんでした。世の中の就職活動も終わりに近づいたころ、宝塚にある音響機器メーカー「東亜特殊電機」(現TOA株式会社)さんに拾っていただきました。もうひとつの好きな分野、音楽関係のメーカーでしたので、ありがたく入社させていただき「関西人」になろう!と決意。いろんなことがあった、想い出いっぱいの福井を後に宝塚へお引っ越しです。

TOAさんにもバンドがあり、日々楽しみながらお仕事をさせていただきました。ここでは、PAアンプの回路設計に従事していたのですが、最初に手掛けた商品がいきなり社内の開発賞に選ばれました。 (単に先輩方が優秀なだけだったのですが。。)受賞スピーチを全社員の皆様の前でやったのですが、これがバカウケ!爆笑の嵐!(元来ウケ狙いでない僕が、しかも関西で!)生涯最高のスピーチでした!

1987

TOAさんでは、ずっと欲しかった中型バイクの免許も取り、YAMAHAのTZR250を購入。デザインの道をすっかり忘れたかのごとく、楽しい日々を送ってたのですが、入社2年目で実家の都合により金沢へ帰らなければならなくなりました。「関西人」になろう!と思ったのもつかの間、北陸金沢へUターンです。またお引っ越し。

金沢では、渋谷工業さんという工場のロボットやプラントのメーカーに入社。電子部品の製造ラインの電気制御の設計をすることになりまた。
ラインには要所要所にセンサーがついていまして、そのオン、オフで機械の動きを制御する訳です。機械屋さんは機械の身体を、電気屋さんは機械の神経系を作るといった感じですね。 機械屋さんと電気屋さんが一緒になって機械に命を吹き込む。面白い仕事でした。が、折からのバブル好景気で超大忙し、元来サボリの僕はその忙しさについて行けずやめてしまうことになりました。

1988

今度こそクリエイティブな仕事へ。と決意を新たにしていた時に、「資格は清酒論」という、地元最大手新聞に掲載された、掟破りの15段全面の求人広告。数名のスタッフを求人するためだけにこれほどの広告を打つとは!その意気込みに心を揺さぶられ応募。全く畑違いの企画部門、しかも酒蔵。それは、金沢の老舗酒蔵・福光屋さんがC.I.を行うためのスタッフ充実のための求人広告でした。

なぜか、僕の清酒論が通り、めでたく入社。最初は色々な意味で戸惑いましたが、小さなころから引っ越し、転校を重ねてきた僕ですから、空気を読むのは上手です。

2002

いきなり14年ワープしました。
福光屋さんでは14年間、企画開発室のスタッフとして、商品コンセプト開発から、パッケージデザイン、プロモーション、グラフィックデザイン、テレビCMの制作、ラジオのCM制作、プロモーション映画の制作、街頭イベント、店頭POPづくり、メニューづくり、社内報、ニュースレター、ウェブプロデュース・・・
お酒を仕込むこと以外、あらゆるブランディング業務に携わらせていただきました。また、酒造りが日本の伝統的な産業であることは僕にとって日本人のモノづくりの心、文化的な心を知る大きなきっかけとなりました。後半は企画室の責任者も勤めさせていただき、いろいろな方から本当に多くのことを学ばさせていただきました。

独立起業が心の中に芽生え、具体的に固まりだして1年後、意を決して福光屋社長である福光松太郎社長に打ち明け、相談しました。そして、快諾をいただき、ついに2002年7月末日辞職、有限会社シュールを起ちあげました。

こういった仕事をして行く中でとても印象的に思ったのが、自分の今までの人生の中で無駄 なことがひとつも無かった!という事実。
怠け者のサボリが招いた大学の留年期間も、音楽やクリエイティブな分野に深く触れていたことが、今の制作面 での判断基準を作ってくれてますし、工学の分野で学んだことにより、生産面 での様々な課題への理解や解決発想を助けてくれています。

2002

9月6日 有限会社シュール設立
中小企業のブランディングサポートといえば、偉そうですが、オーナーさんと一緒に夢を、思いを形にできればとても幸せです。

2003

4月、不可思議な力に導かれる。

2004

6月、もうひとつの不可思議な力に導かれる。

2006

8月4日、今日、これを書きました。
一気に自分を振り返り感慨深いです。ここには書けないこともいっぱいあります。思い出すのが辛いことも。
でも、今この時点で、たくさんの夢があります。それには、今お仕事させていただいているクライアント様と共に達成したい夢もたくさんあります。生まれてきたからほぼ、いい加減に生きている僕ですが、これからもできる限り楽をしながら頑張ります。楽しみましょう!
よろしくお願いしますね!

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コメント

[氷の世界」は私もはじめてのLPでした。

学生運動のしっぽが私たちの気分をとり囲んでいましたが、内へ内へ向かう自分を許してもらえるようで衝撃的だっとことを、懐かしく
思い出しました。

のらりくらりの日々ですが、いつかは私も社会のお役に立ちたいものです。

かりなさま
人はいつだって「何か」を表現したいんですよね。いろんなレベルで。
その人にとって最も効率よく表現できるものが見つかったとき、そこからがスタートラインなのかもしれませんね。

私、実は拓郎派です。
陽水派の友人と、拓郎vs陽水で夜明かししたことも・・・。
懐かしい思い出です。
そーですか、理科系だったんですね、知りませんでした。
今度、電卓の使い方、教えてください。

kikiさま
’60〜’70にかけてビートルズからはじまって。
あの頃の人たちが、まだまだ活躍している。
芸術や、学問や宗教の世界で同一カテゴリーですごい才能の人たちが同時期に出るって、歴史的にもいろいろありますよね。
何かの仕組みがあるのでしょうか?
ところで、実は僕は電卓のM+とかM−とかの使い方がわからないんですけど。。。

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